「長良川河口堰建設をやめさせる市民会議」 とは
長良川河口堰建設をやめさせる市民会議 代表 天野礼子
「長良川河口堰建設をやめさせる市民会議」は、 1992年の“国際ダムサミットin長良川”を期して、 長良川河口堰に反対する旧新の59団体が集合して作った。
代表は、「長良川河口堰建設に反対する会」事務局長でアウトドアライターの天野礼子。
そもそも、長良川河口堰に反対する運動が全国規模になったのは、1988年の河口堰建設工事着工時。 天野が、師の開高健(1988年没。“オーパ!”などの自然誌を著し、日本のヘミングウェイと称されていた) をくどき、「一本の美しい長良川のためでなく、2300年もの昔から農耕と川を友にしてきた“川の国”に、 誇れる川が一本もないのはおかしい」とたちあがり、問題を国会へ持ち込んだことに始まる。
長良川河口堰工事の認可大臣は、かの建設族のドン金丸信なので、この戦いは、 不必要な公共事業による自然破壊を問題視する市民と”政・官・財”の天王山となった。
それゆえ、河口堰が完成した1995年5月に、社会党(当時)建設大臣であった野坂浩賢が、 党と自分への建設業界からの金と票に目がくらんで運用を宣言したが、産経新聞以外のすべての新聞社が翌日に社説を出し、 これが“世紀の愚行”であると批判した。 (この間の経緯は「巨大な愚行」<風媒社刊>にくわしい)
野坂運用の根拠は「影響が軽微と考えられる」というものであったが、 運用後55日目には水質汚濁の指標であるアオコが発生、水質・底質もいちじるしく悪化、 魚介類の一部は絶滅の危機に瀕している。
「市民会議」は「運用」にもくじけず、目標を「わが国初の運用された事業の見直し」とした。 すなわち、河口堰のゲートを上げることである。
そこで迂遠だが、アメリカや世界の公共事業の潮流を日本中に知らせることに目的を置いた。 96年5月には、「公共事業チェック機構を実現する議員の会」(後に「機構」という文字がとられる。この会は94年に“長良川”NGOが超党派の国会議員につくらせ、事務局を務めてきた)と共に渡米し、 「アメリカはなぜダム開発をやめたのか」(築地書房刊)を刊行、秋には「第2回国際ダムサミットin長良川」を催し、 米国開墾局前総裁ダニエル・ビアード氏を招き、「世界の潮流に日本だけが逆行している」 ことを日本中に広めた。
また、97年3月には、「21世紀の河川思想」(共同通信社刊)を発行すると共に、民主党より、 「河川法改正(?)への対抗案」と「公共事業コントロール法」を提出させた。
同じく3月20日には、「市民会議」の提案で 「公共事業チェックを求めるNGOの会」(所属400団体) を旗上げさせ、所属団体の一つである「諫早干潟研究会」の問題を国会議員に知らせ、議員達を現地に招き、 シンポジウムを主催して同問題を全国版にした。
諫早が先か、長良川が先か。21世紀を目前にし、公共事業を問い直そう。
長良川河口堰建設をやめさせる市民会議
〒500-8432 岐阜市なわて町2-2
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