―長良川河口堰・諫早水門開放のモデル―
オランダ・ハーリングフリート河口堰視察(4/1〜4/5)報告


2001年4月26日 天野礼子


 2000年6月そして今年4月1日からの二度、長良川河口堰及び諫早水門開放のモデルとすべきオランダのハーリングフリート河口堰を見てきました報告をさせていただきます。

〈背景〉
オランダは、ヨーロッパの中でも特に環境についてはしっかりした政策を出している。例えば原発がゼロで、その代わりの電力として、国中に大きな最新式風車が建立しているし、またCO2についての京都議定書に関しても、署名しないアメリカを追及する最先鋒はオランダの環境大臣である。
 これにはヨーロッパの地形からオランダが持たざるを得なかった"宿命"が関係しているように私には思える。
 一つは、オランダという国は、1100kmのライン川河口に広がるデルタ地帯で、ヨーロッパ全土を流れてきたライン川の汚れの堪る最終地点であったということ。
 二つめは、国土の2分の1が海面下であるが、これはオランダ全土で86万ヘクタールの河口域の、65%が「埋め立て」で生まれてきたということ。
 すなわち、ヨーロッパの中で最も激しく開発をした国であるからこそ、現在の環境に対する施策という"反省"があるということだろう。
 そのオランダは、もともとは海より低い土地ではなかった。この1000年間、海を埋め立て干潟から水を抜き、天然ガスも抜いてどんどん土地が低くなったのだ。その結果、川に近い土地がどんどん上昇していったため、180年前の1820年から「低水位工事」を施し、川をまっすぐにして洪水を早く海へ出す施策をとるようになった。
 日本の内務省は100年前にこれを学び、昨年までの建設省は、オランダをまねた川の直線化と、戦後アメリカから学んだ、大型ダムによる治水を実行していたわけだ。
 近年オランダでは、これまでの1000年間に海や川と闘ってきたことや、治水に良かれと思って川を直線化し、河口堰を造ってきた事が、実は治水に良くなかったことが明らかになった。
 そのためオランダ政府は、1995年に河川政策を変換し、2000年5月にハーリングフリート河口堰のゲートを2005年から開け始めることを閣議決定した。
 ハーリングフリート河口堰は1970年から使われ始めたが、翌年からたちまち環境悪化が問題となり続けてきた。この30年間にヘドロが7m(総量は1億5000万立方m)堪っているため、オランダ政府は「段階的に」「少しづつ」水門を上げることに決めた。
 しかしこの「段階的に」「少しづつ」を日本の諫早や長良川のモデルとすることについてオランダの担当役人は
@ ハーリングフリート河口堰は30年だが長良川は5年、諫早は3年という大きな違いがある。
A 新しい状況(長良川の場合は貯めた水を使うこと)にはまだなじんでいないので決定は覆しやすいはず。
B 予想外の状況(ヘドロがたまった)があったことを考慮することが重要。
という以上の3点から、日本の場合は自分たちのように時間をかけて少しづつというよりは、もっとはやく開放することができるのではないかと助言してくれる。
 
 またオランダの事情をもう一つ付け加えると、オランダでも全門を直ちに上げることもできるのだが、それは金がかかりすぎるのでやめたという事情である。
 そして昨年行ったときは会うことができなかった、オランダで最初に国土交通省内の生態学者となられた(1970年就任)、デルタプロジェクト(1958年〜)全体の責任者の一人、サヘージ教授によると「塩が入ることが水質悪化を大いに助ける」ことにオランダ政府が気がついたことが、この水門の開放の一因でもあるという。
これは、水質悪化が漁民を動かした諫早にとっても長良川にとっても大きな論点である。そして長良川については河口堰の存在が「塩害防止」となっているとされているが、取水口での操作や取水口の移動で解決できる塩害を、むしろ水質浄化のツール(道具)として使いつつ、塩害対策には取水口の操作等で解決するという「ワイズユーズ」(賢明な運用)が、これからは、造ってしまった河口堰や水門に求められていると思う。

〈オランダ〉
・ 国土の2分の1が海面下
・ 流程1100kmのライン川の河口に広がるデルタ地帯
・ 86万ヘクタールの河口域の65%が埋立地
・ 淡水の80%がライン川依存

〈河川政策の歴史〉
・ 1000年前から海と闘い、川と闘ってきた。
・ 1820年から180年間、低水位工事(100年前に日本がまねる)を進めた。
これ以降に川に近い土地が上昇し始め、頻繁に洪水が起こるようになる。
・ 1953年 高潮があり、9000ヶ所の堤防が切れ、1800名が死亡。
・ 1958年 デルタ計画立案。
・ 1970年 ハーリングフリート河口堰完成。
・ 1971年 運用して1年目で大規模な水質悪化。
(この頃はライン川が高度経済成長で一番汚れていたし、水質基準が強化されたのは1980年から)
・ 1975年 デルタ計画のうち東スヘルダ湾の水門は、完成しても開放しておくことが決定された。
・ 1986年 上記水門は完成したが開けっ放しとなった。
・ 1993年、1995年 25万人、数十億ドルの洪水被害。
・ 1995年 河川政策変更発表。
@氾濫原を活性化し、洪水ピーク時の川の水位を低く抑える。
A川底の広さを保持し、川の流量を維持する。
B自然林や川底を復活し、川のスピードを緩める。
・ 1998年 5億ドルの洪水被害。
・ 2000年5月 2005年にゲートを上げることを閣議決定。


〈ハーリングフリート河口堰の被害〉
・ 2mの干満差が30cmになった。
・ 毎年500立方メートルの堆砂(総量1億5000万立方メートル・7m)
・ 魚、貝、水鳥だけでなく動植物への被害が運用1年目から出ていた。

〈ゲート開放の仕方〉長良川や諫早でこれをマネする必要はない。
・ 2005年に水門を10%開ける。
・ 2015年には3分の1を開ける。(60%の潮流回復。年に20日だけ閉めて、95%時には3分の1を開けておく)
・ 「ストリームバリア(全門開放)」、「コントロールバリア(少しだけ常時開けておく)」、「ブロークンタイド(開けたり閉めたり)」の3方法が検討され、2番目の「コントロールバリア」に決められた理由は
@「ストリームバリア」は金がかかりすぎる。
A30年もヘドロを溜めていたので急激にやると科学的に危険。
という理由なので、日本ではこれをマネる必要はない。
・ 開放費用(2800万ドル)のうち、2500万ドルが取水口の移動に関するもの。

〈オランダの河口堰の責任トップ スタン・カークホフス氏の助言〉
@ コミュニケーションが最重要。
A 経済的なことは代替可能(もっと金を出せば全門開放もできる)。
B 水門を開けると堆積が減り、治水のコスト減に有効。
C 浚渫費も安くなる。
D 結果的に、開放にはコストがかかるが長期的にはかえって安くなる。
E ハーリングフリートは30年だが、長良川は6年、諫早は3年。まだ間に合うので全門開放が可能では。

〈デルタ計画でオランダ初の計画プロジェクトの中の生態学者となったサヘージ教授の教え〉
・ 1958年にデルタ計画が立案された。1970年のハーリングフリート河口堰始動時から反対があったのでプロジェクトの中ではじめて私が生態学者として入れられた。
・ 70年代、ライン川の流れは汚く、ハーリングフリート河口堰を閉じる1970年の段階で、閉じると土砂がたまることは予想していたが有害なヘドロとなることは計算していなかった。1億5000万立方メートルのヘドロがたまった。「川を綺麗にする前に、閉じちゃいけなかった」 → 天野(注)・国土交通省は「ヘドロとなることは予想していなかった」と言い訳をして、長良川河口堰のゲートを全門開放するべき。
・ 1974年に大臣に「デルタの最後のダム(東スヘルダ湾)は造っても開けておけ」と進言。
・ 1975年にこの進言どおりに実行されると、内側の堤防があるので塩分がそれまでよりも濃くなり、東スヘルダ湾の透明度が9mに上がった。貝とバクテリアが水を浄化したのだ。
・ これによって我々(オランダ)は教訓を得た。
「川の出口にとって、淡水だけというのは水質に悪く、塩水を入れてやることが良い。汽水域は神が造られた浄化装置だったのだ。」
・ 「長良川と諫早への教訓となるかね?長良川の運用は"政治"がさせたのだろ。」


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