三重県は、河口堰からの給水計画の先送りを決定した
長良川河口堰建設をやめさせる市民会議
現地・長島町議 大森恵
*この文章は「第17回水郷水都全国会議・紀の国大会」の大会報告集の原稿として作成されました。
2001年6月19日。この日を忘れてはならない。この日、三重県はそれまでの頑固不変の給水計画をみごと中止してくれた。
国がいったん立てた計画を絶対変えないように、県もまた決定した事業計画は絶対に変えようとしない。それは恐ろしいほどに不動の決意と見せていたのだ。
5月ごろから小出しの動きはあった。しかし中止の決定は不意打ちで報道された。
わが長島町の町長は北勢協議会の決定を非難して怒っていた。県はあれこれ推進派の雑音の出ぬ間にすばやく表に出して建設省派の動きを封じた。
河口堰運用決定後
これを遡る六年前を思い出そう。
1995年5月、社会党の野坂建設大臣の手にかかって長良川の命運が尽きた。
長良川を護るための運動のきびしく辛く休む間もなかった日々。
着工から7年間の日々、私たちは長良川のことから片時も思いを離すことはなかった。
市民会議代表の天野さんはあらゆる知恵と術策を尽くした提案と抵抗を続け、日本自然保護協会、建設省の虚偽と戦う大学の教師たち、国内また外国の川を愛する人々の戦いのあつい連帯とともに、「河口堰運用決定はやらせない包囲網」は、野坂建設大臣を「運用中止」と決意させる寸前にまで追い込んでいたはずであった。
しかし省内奥深く建設省のもっとも有能な高級官僚が野坂建設大臣につききりに張り付いて、大臣は心身すべてとらわれの身であったのだ。
この日堰建設推進側は勝利宣言の美酒に酔い、一敗地にまみれた私たちはそれぞれの場所の陣容をどう立て直すか、模索の日々が始まった。
私、大森恵は河口堰の現地長島町でこの運動をはじめた最初から、河口堰問題は水道問題だと強く思わせられる場面に幾度も出くわしていたから、「何ができなくても水道問題だけは最後まで追及してやろう」と、敗北感の底から決心したのだ。
利水の嘘
長良川河口堰反対の運動を始めてから、推進側のささやく嘘、ふりまく嘘にどれほど心を揺らされたことだろう。到底嘘をつくとは思えない地位にある人々がまことしやかにつく嘘に取り囲まれて私たちは生きてきた。その嘘の中でも私を最もためらわせた嘘は「大森さん、河口堰ができると水がタダでもらえるから水道代が安くなる。河口堰に反対してはいかんのや」と私をさとすように言ったある有力自治会長の言葉である。
長島町は周囲を木曽川長良川の大河に囲まれて水の豊かな土地と見られているが、実は地盤沈下のためまわりは塩水ばかりで水問題に悩む自治体であった。
飛騨川の岩屋ダムの水を分配する木曽川大堰の北勢広域水道の配水を受けているが、水価は高く町民の支払う水道料金が周辺市町村より図抜けて高いので、不満と疑問の声は常に町内に満ちていた。その高い水にかわって河口堰の水をタダで地元にくれるというのである。長島町民にとってこれほどの有難い話はない。その有難い話の行方を妨害する運動がこの町で支持を得るだろうかと、そのとき真剣に悩んだものである。
運動の中で「河口堰の建設費もそのあとの導水工事もすべて水価にかかってくる。水道代が安くなるというのはウソだ」と教えられて、ようやく町の有力者に反論する自信を持ったのであるが、そのあとも何度でもこの虚言を私は聞いた。
1994年、建設省の特別の計らいで、長良川表流水をもらえることになった。しかしタダでもらえるなどとんでもない。取水口、送水管、浄水場などを建設するために50億円の事業費が予想されると説明を受けて、アッと驚く間に12月議会で町水道拡張事業を決議し、長島の水道代は安くならない、かえって高くなることを平然と表に出したのである。これで私も公然とすべての人に「河口堰の水道は高いですよ、その上に汚いまずい」と宣伝する道が開けた。
利水計画は始まった
建設省が作り上げた「河口堰必要論の理論」「長良川の治水はしゅんせつしかない。川底を掘ると海水が遡上し上流に塩害が起こる。治水のための河口堰である」。
この三段論法がどんどん盛り上がる反対運動への唯一の説明であって、治水が河口堰問題のすべてのような様相であったが、実は裏で利水の計画は着実に進められていた。
1992年には、知多半島へ水道用水を供給する秒2.86トンの長良導水計画が発表された。長島町では堰下流部が塩水化するので水田かけ流し用の除塩用水秒0.9トンが割り当てられた。長島町にはすでに農業用水として木曽川大堰から秒あたり3.45トンを契約している。日量にすると29万8000トンのところ、実使用量は4万2600トン、それも稲作時だけの使用であるから、農業用水の異常な占有量を物語るものである。
1993年7月長良導水の計画決定。私たちは直ちに行動を起こした。
「知多市民の皆様、長良川河口堰からの水は飲めません」と大きく書いたビラを作って、名鉄線の知多半島の主要駅で訴えビラまきをした。途中で共産党の市会議員に会ったので市議会で取り上げてくださいとお願いした。しかし知多半島の反応は起こらなかった。
同じ1993年、田川三重県知事は三重県企業庁長に対して長良川河口堰系水道用水供給事業の実施命令を出した。
1. 長良川河口堰を水源とし最大水量毎秒2.84トンとする。
2. 中勢水道用水供給事業の市町村別計画給水量。津市ほか2市9町村。合計83,600トン日量(1.04トン/秒)。
3. 1項の給水量から2項の計画給水量を引いた残余水量にかかる建設費、維持管理費は、一般会計において負担するものとする。
津市はこのとき日量44,500トンを契約した。水価格が幾らになるか気にもせずに。
津市には社会党の女性議員がいた。私は機会あるたびに「河口堰の水は水価が大変高くなりますよ。とても負担できる水価ではありませんよ。また最河口の水は汚くて飲用にはできません」と説明したが、その女性議員は「津市は水が不足しているんですよ。河口堰の水は必要です。」きっぱりと、とりつくシマもない返事であった。
それから5年後、中勢水道の一部給水が始まり、1トン当たりの契約水量が2,060円でそれを44,500倍すると契約料だけで一日9,167万円!を払うことがわかってきた。1998年から地底の不協和音のような不満の声が聞こえ始めた。1998年の一部給水から料金値上げが始まり,それは2年ごとに繰り返されるそうである。
孤独なたたかい
1995年に河口堰の運用開始が始まった。それまでも三重県に対しては二度の話し合いをしていたが結局中勢用水については、事業中止はできない、水資源公団への支払いが始まるから何としても料金収入を得たい様子であった。
河口堰の水道問題を、受水する関係自治体へさまざまなつてを頼んで訴えるレポートを送る私の孤独な戦いはこのときから始まった。
これはまったく孤独な戦いであった。水需要予測や水源の水量などは河口堰差し止め訴訟をしていた村瀬惣一さんから詳細なレポートをいただくことが出来たが、水道は個々の市町村が独立採算の企業体として運営されており、その経営の中身に立ち入らなければ提言しても耳を傾けてもらえない。
各地の顔見知りになった議員さんたちに水道課の経営を訊ねるのだが、水道会計は複式簿記の企業会計なので議員さんがたは誰もこの内容を理解してないのであった。
それでも私はいろいろと内容を変えていつも新鮮なレポートを作り、あらゆる場所あらゆる機会に配布して訴えた。
利水へのうごめき
1994年から長島町が長良川表流水を日量2,900トン水道用として計画決定してから、私はまずわが長島町の水道会計を徹底的に分析した。また北勢広域水道(鈴鹿、四日市ほか3市5町)の木曽川大堰水道の使用状況を常に把握し、いつ誰に対しても正しい最新な水道情報で話し合いを出来るよう数字やニュースを頭に覚えさせた。
あらゆる出会いが河口堰水道問題を訴える場となり、水道問題のこととなると我を忘れるほど熱中するその話し振りが人の印象に残ったのか、河口堰の水道のことなら「大森さんに」と、他の人に伝えてもらえるほどの影響ももつようになった。
それでも反応は微々たるもので、中勢の嬉野町の議員、常滑市の空港反対の議員などが切実な問題として聞いてくれたが、その自治体で行動を起こす力とはならなかった。
1997年、にわかに私たち北勢に「北部広域圏広域的水道整備事業」が決定されてきた。それまでの北勢広域水道に亀山市と菰野町を加えた事業である。47,600トン(日量)で最大の割り当ては鈴鹿市の13,000トンと四日市市の10,000トン、
桑名市は木曽川大堰で大量20,000トンを契約していて余剰にしているので、今回は2,500トン。驚くのは鈴鹿山系の源流の町、亀山市が2,600トン、菰野町は三重用水の水源なのに4,000トンも割り当てられているのである。いかになりふり構わぬ押し付けといってもあんまりひどい三重県企業庁。
私たちは企業庁にこの計画の不要を陳情し、自治労の大平誠県会議員にも解決を要望した。
この計画では長島町は4,000トンの割り当てであるが、1994年に2,900トンの長良川水源が決定しているし、現在の木曽川水源が日量4,300トン。合計で11,200トンとなれば大金持ちならぬ大水持ち、15,000人の人口では最大水量で6,000トンあれば十分なので約半量は不要となる水に使わなくても支払いが生じてくるのである。
ここから議会内での私の戦いが始まる。
この計画を全部実現させると長島町の水道会計は支払超過となり、大幅な料金値上げを座して待つのみの運命となる。また町民なら誰でも知っている長良川河口堰の汚れ水を飲ますことは出来ない。町内で座談会、ミニ報告会、大量のレポート配布。議会では頭から血を噴出すほどの形相で議論した。結論は長島町としては長良川河口堰の水は水道水としない、その点だけ議員たちの賛成が得られた。桑名市の播磨浄水場管内の水道は木曽川水源ときまった。
河口堰建設費の償還はじまる
1998年は忙しい年であった。年明け早々1月10日の読売新聞の記事に目を剥いた。
長良川河口堰建設費の償還が本年から始まる。工業用水についてまったく需要がないので、愛知県500億円、三重県355億円を一般会計から支出すると決定した。
私たちの行動は素早かった。1月13日には中部経済団体連合へ私の会の加藤良雄さんと村瀬惣一さん、私の三人で第一回の抗議。中経連は長良川円卓会議の席上で「私たちは工業用水が必要です。
反対派のみなさんどうか今すぐに長良川の水を使わせてください」と哀願するがごとき大嘘をついて運用を決定させたからだ。しかし今抗議しても中経連は「工業用水は愛知県の管轄だ」逃げの一点張り。本当に腹が立った。
この問題は不正な公金の費消として返還を求める裁判を起こし、現在三重県愛知県とも係争中である。
2月には三重県と愛知県に抗議に行き、工業用水の支払い中止と水道用水の河口堰水切り替えの中止を交渉した。愛知県は悪質でわれわれ市民の申し入れに一切耳を貸さない態度であったが、三重県は、河口堰周辺で環境ホルモン検出の詳細を報告すると、当面河口堰の水は水源として使用しないと非公式ながら約束した。
そして4月から愛知県の知多半島への河口堰水の送水が始まった。知多半島の住民は異常な水道水に悲鳴をあげた。「臭い」「変な味がする」「ぴりぴりする」「肌が赤くなった」知多半島は河口堰水の人体実験場であった。おまけに料金が上がった。水質を改善するため活性炭を大量に使用して経費もかさんだ。愛知県企業庁は大赤字に陥っている。
三重県は、私たちには河口堰の水は飲ませないと約束したが、建設省から叱られた。長良川河口堰の水と言わないで「木曽川水系の水」と今あいまいに言いぬけている。
同じく、4月から三重県の中勢第1期の給水も始まった。依然中勢地区は静かである。長良川河口堰の事業であるが水は給水しないよう要望したその約束を企業庁は守ってくれている。
亀山市とのコンタクト
1999年、亀山市の女性が「どうやら自分たちは河口堰の水を飲まされるらしい」と知り、何をすればいいか」と私のところへ電話をしてきた。大逆転の始まりである。
私と村瀬さんは早速亀山市まで出かけて勉強会を開いた。私の勉強指南は「まず自分の自治体の水道を知ること。水源はどこか。現在の自己水源量は?一日、一ヶ月の水道使用量は?また各家庭の水道使用量は?「これを調べてください」というだけである。そうすると水源は十分にあり、莫大な工事費をかけて海の側から鈴鹿の山まで、河口堰の有毒な水を導水する必要は全くないことが誰にも簡単にわかるのである。
亀山市の女性たちは「毒の水はいりません」と目を見張るような行動を起こした。
彼女たちは自治体首長を動かすという、一番難しい離れ業をやってのけて道を開いた。
「水の恵み」
また知人が主催する津市の市民塾で、県の企業庁の担当者を呼んで水問題の学習会が開かれた折、貴重な資料を手に入れることが出来た。企業庁の事業内容を一冊のパンフレットにまとめた「水の恵み」という逆説的な名がつけられたその資料。企業庁とすれば自分たちの誇るべき業務をまとめたものであろう。事業概要のところに北勢、中勢、南勢と全県下の対象市町村の受水量から事業費まで詳細に一覧表にまとめられていた。この情報が欲しかったのだ。私の全身は震えた。担当者にさらに詳しく説明させて私の知識の武器は益々充実した。
その後の民主党のヒアリングやさまざまな会合の講師として、水道事業計画の過大さ、事業費の膨大さを訴える私の報告は人々を納得させることができた。
大団円へ
そして2001年。3月4日の朝日新聞三重版で「『余り水』に県税注入」という題で、建設負担額と水需要の大きな記事が出た。これが終わりへの始まりであった。
津市では大幅な水道料値上げで水道課は窮地に追い込まれようとしていた。市民の負担許容限度を超える値上げであった。
津市の知人から私は詫びを受けた。「大森さんに5年も前から水道問題について何度も聞いていたのに、大幅値上げに至るまで考えようとしなかった。ほかの市民運動には熱心なのに、足元の大事な民主主義に気づかなかった」
このときすでに中勢広域水道協議会では、長良川水系拡張事業の見直しの動きが始まっていたのである。
北勢水道の協議会が開かれて、企業庁は受水量の変更を出すようにと伝達したと、わが長島町の水道課長が教えてくれる。「必要水量を出してください」と指示する。
私は何と今、長島町の公営企業運営委員長なのである。
他市町村の動向を知るため迅速に問い合わせの電話を入れていく。四日市市では10万トン近く余剰であることを担当職員が教えてくれた。
5月2日の朝日新聞の記事「津市は4月、水道料金19.77%の値上げをした。1997年4月にも21.7%の値上げをしていて二度目の値上げ。98年から1期分として責任水量5,500トンを受水しているが、既存の自己水源だけで十分足りており河口堰がらみの支払いで99年度は8億1千万円も県に払っている。会計の赤字は4億1千万円。
「亀山市で地下水の水量を調査中、結果が出れば受水見直しも」。
きっと国土交通省や県にとって嫌な記事ではないかと心中を忖度する。
それから12日後、亀山市は5月14日に爆弾発表をおこなった。「亀山市としては調査の結果豊富な地下水量があるので河口堰の水利用計画については再検討する」。
この亀山市の発表はメガトン級の威力があった。どこもだれも水は要らないのだ。「断ってもいいのか?そんなこと許されるのか?許されないぞ。」北勢系長良川水系拡張計画の協議会は亀山市の抜け駆けに怒った。しかし追いかけるように爆発は続く。
27日には「中勢2期工事のめど立たず」の報道がされる。2期工事は2001年度調査費を計上して、2002年から工事着工であった。中勢では1998年から1期分の供給を始めたが水需要がなく関係市町村は軒並み水道料の値上げだけを行った。700億円を使う2期工事の見直しを求める声があがったのだ。
亀山市の発表を受けて私たちは立ち上がった。北勢協議会から非難の矢が集中している亀山市を助けねばならない。時期来たれり。北勢用水の大口申込者の四日市市長、鈴鹿市長を説得しよう。桑名市議の成田正人氏、川越町議の石川奈々子さん、片山勝治氏、亀山市から米川功氏で29日に四日市市長と懇談。最初亀山市の抜け駆けを怒っていた市長であったが、いかに四日市が余剰水をかかえているか、河口堰水を入れると一日の負担だけで1400万円と説明するうちに、すっかりまじめな顔になった。「鈴鹿市にも行ってくださいよ」とこの市長から要請される。
鈴鹿市に行く前に四日市市長が動いた。
6月6日の朝日新聞「北勢10市町、河口堰受水先送り検討」。
6月11日鈴鹿市長と面談。四日市と同じメンバーで出かけた。市長も課長もとても素直に私たちの説明を聞いてくれた。「よく検討します」と誠実な答えであった。
河口堰の虚構の一角崩壊
6月19日県企業庁が「北勢、中勢への給水計画を先送りする」と発表。中日新聞に大きく報道される。市町水道協議会は「ありがたい。でも将来は河口堰の水は必要」とフオローのコメントをした。県のメンツを大切にしたいのだ。
中日新聞は私のコメントものせてくれた。「住民の立場に立った県の決定を評価します」。
長良川河口堰の虚構の水利用計画の一角がここに大きく崩れたのである。
中勢第2次拡張事業建設費 754億5000万円
北勢系第2次拡張事業建設費 374億1000万円
今は財政大改革の時、国の補助金も難しい局面。一般会計からの繰り出しも限度。企業庁の債務を増やして市町村へ振り向ければ住民の怒りが爆発するかもしれない。
知事も企業庁もこの延期決定が最良の道であったのだ。
私たちは1128億円のムダ使いを止めた。
そして河口堰ゲート開放への確実な一歩を作った。
| ホームへ戻る|