VOL.24-2


二十一世紀の公共事業と私たちの宿題
「官僚と裁判官を変える」
 法政大学教授 五十嵐敬喜

状況観察と構造の把握


 今回の亀井公共事業改革をどう見るか、いろんな見方がある。一応、不倒神話とい
うものに手をつけて、島根県中海の干拓事業など二三三の事業に中止(勧告)したこ
とは評価されるが、まだまだ物足らないというのが一般的な見方である。しかし、こ
の見方はあくまで状況観察的見方であり、事態の構造というものが捉えられていない
。このままでは、亀井さんがいなくなると(事件が無くなると)、報道もなくなり、
官僚はいつ知らず改革をサボタージュするという、いつものパターンに戻ってしまう
であろう。
 サボタージュを許さず、改革を進めるためには、状況観察だけでなく、改革の構造
を捉える必要がある。構造とは何か。今まで絶対に倒れることのなかった公共事業が
なぜ倒れるようになったのか、その限界と可能性をみるということだ。
 そこで政策決定に強い力を持つセクションごとに今回の動きを見てみよう。
 
各界の動き

〈政治〉
 特に自民党の亀井政調会長の活躍が目立ったが、これに対して野中幹事長をはじめ
とする旧竹下派の巻き返しもある。なお民主党をはじめとする野党は、せっかく衆議
院選挙で争点化することに成功しながら、今回は改革のスピードの前になすすべもな
く、存在感がほとんど感じられなかった。
〈官僚〉
 マスコミの上では目立った動きはなかったが、政治家の動きをよく計算していて、
要するに中海のように官僚から見ても止めたかったものは中止したが、吉野川のよう
に止められないものは、ぎりぎりのところで復活の可能性(白紙撤回)を残している

〈自治体〉

 たぶん今回の動きの中で一番惨めだったのは自治体である。彼ら知事(と議会)は
、今日の今日まで事業継続を強調し、工事中止に対して最後まで抵抗した。しかしマ
スコミなどでほとんど相手にされなかった。なお島根県知事の、「中海を止めるので
あれば他の公共事業を」という要望などは厚かましさを超えて、醜態のようにも見え
た。
〈企業〉
 ゼネコンなどは公共事業を命の綱としている。けれども今回は建築・土木業界の姿
は表面的には何も見えてきていない。
〈市民〉
 吉野川河口堰の建設に反対した徳島市民の市民投票以来、市民も必ずしも大きな動
きをしていない。〈マスコミ〉
 マスコミはこのような各界の動きを伝える中で、総じていえば無駄な公共事業をア
ピールし、政治に対してその是非を迫ったといえよう。
〈裁判所〉
 あまり大きく報道されることはなかったが、熊本地方裁判所は川辺川ダムに関連し
た土地改良事業について、農民ら住民の訴えを却下している。



5月22日に赤須賀のシジミ漁師の仕立てた船で、ヘドロの調査をした菅直人民主党幹事長。この人の行動が、公共事業の嵐を巻き起こしてきた。左は「しじみプロジェクト」の伊藤研司氏。       phot by 伊藤孝司
変わったものと変わらないもの

 公共事業は、これまでよく知られているように「政・官・業」が推進主体(自治体は
これにぶら下がっている)であり、これに対して市民と一部マスコミが抵抗するとい
う構図になっていた。その力は圧倒的に強く、市民の側に勝ち目がないまま、鉄のト
ライアングルは「不倒神話」を誇ってきた。
 それにもかかわらず、今回とにもかくにも、この神話が崩れたのは、先の衆議院選
挙で敗れた自民党が、その敗因を公共事業の中に見て、このまま強行すれば来年の参
議院選挙も危ないとして、合理的な政策判断というよりはむしろ、選挙対策として動
いた、という側面が強くある。だから国民がこの程度の改革では許さないということ
であれば、引き続き連続改革もありうるし、もし彼らが切り抜けられると判断すれば
、改革はなくなるというのが今の状況といえよう。これだけでなく、他の要因も含め
て政治は流動的である。
 今後、政治をどうするかという鍵を国民が握ったという意味で、この分野は今、最
も大きく変わりつつある分野といえるだろう。
 しかし、これに対してほとんど変わらない勢力もいる。前述の項目でいえば、官僚
、企業、そして裁判所である(自治体は変わる可能性もあるので、中間に位置づけて
おきたい)。
 この三つは実は変わらないどころか、かえって力を強化しているということに注意
しなければならない。その筆頭は官僚であり、周知の通り、霞が関には来年一月から
、世界に冠たる「国土交通省」と「農林水産省」という巨大公共事業官庁が生まれる
ことになった。とくに「国土交通省」は予算、人員、権限から見て、大臣はもちろん
、総理大臣でさえコントロール不可能(下手に動くと選挙で落とされる)だといわれ
るくらいの代物で、今回の改革も引越し前の垢落しのようなものに過ぎないという官
僚もいるくらいなのである。
 現に来年度予算案では、公共事業がこれだけ騒がれ、また中止によって二兆円が節
約される(そうであれば予算は減らなければならない)といわれたに関らず、逆に増
えているのを見ればその底力がわかる。
 企業、ゼネコンの積極推進の立場が変わらないのはもちろんだが、最近のゼネコン
の不況ぶりを見ると、背に腹は代えられないとして、談合や賄賂などでいくら逮捕さ
れても、なりふりかまわず、これまで以上に政治に乗りだす可能性がある。次の参議
院選挙は彼らにとっても正念場となるだろう。
 裁判所。地味だが、しかしこれを変えなければ、最終的には何も変わらないという
ポジションを占めている。これは少し詳しく見ておきたい。これまで川辺川だけでな
く、諌早湾の干拓でも、長良川の河口堰でも、多くの地域で住民が裁判を行い、そし
てことごとく敗北してきた。日本では、裁判などしても決して勝つことができないと
いうのが「通説」である。しかしダム建設による水没を見れば解るように、それは住
民に対して決定的な影響を与え、封建時代ならいざ知らず、「居住の自由」など、憲
法によってそこをどかない権利が、基本的人権が保障されている現代では、ダム建設
の必要性や妥当性はより慎重に審議され、場合によっては許可などが取り消されても
よいはずである。また裁判官とは、憲法によって何者にもとらわれず、判決する権限
を与えられていた。
 それにもかかわらず。なぜ裁判官はブレーキをかける事ができないのであろうか。
川辺川判決(国営川辺川土地改良事業変更計画に対する異議申し立て棄却決定取消請
求事件・二○○○年九月)は、その理由を「公共事業は、専門技術的かつ政策的なも
のであるから、行政庁の広範な裁量に任されている」と述べていた。ダム、道路、飛
行場、整備新幹線、あるいはホールの建設の一つ一つまで、およそ公共事業はすべて
、専門技術的であり、政策的なものである。したがってこの判決の論理によると、お
よそ、裁判所で裁判できる公共事業など一つもないということになる。
 この判決によって行政は何の障害もなく事業ができる。この「行政優位主義」(裏
返して「司法消極主義」といわれる)こそ、行政の独裁を許している最大の根拠であ
る。
 これが構造であり、こうして一つ一つ見ていくと、変わるものと変わらないものが
鬩ぎあっているということがわかる。
 

残された宿題

 アメリカでなぜダムの撤去が始まったか。あるいはヨーロッパでどうして堤防に穴
を開けて自然の再生ができるようになったのか。その始まりはまず「市民」である。
市民は現地でその「不当」をアピールすると共に、それを単に「まずい」あるいは「
よくない」といった程度の抗議にとどめないで、「止めさせる」あるいは「できない
」ようにする「違法」のレベルに高めるため、ふたつの分野でトライした。一つは現
に行われている事業を止めるべく裁判所に訴えるということであり、もう一つは二度
と事業ができなくなるように法律を変える(新しく作る)ということであった。そし
てこれらの国では、裁判所は判決、国会は立法という形で市民の運動に参加したので
ある。日本の市民も同じようにトライした。川辺川裁判はもちろんその一つであり、
公共事業コントロール法や徳島市民の志を受け継いだ「住民投票」も、もちろんその
仲間である。しかし、ここからが、アメリカやヨーロッパと決定的に違っている。こ
の、違いが決定的になったというのが今回の改革が明らかにしたもう一つの側面なの
である。亀井さんも自民党もどんなにそれが無駄であると考えても、川辺川ダムは止
めることができない。それは司法が「合法」としているからである。また私たちは第
二の川辺川を止めることができない。それは国会がこれを止める新しい法律を作ろう
としないからである。国土交通省が計画する事業は無敵なのである。
 そして亀井さんたちは、それを打ち破る新しい法律(裁判官が判決しやすいように
する行政訴訟法の改正を含む)を作る気はさらさらない。それは、こういう法律を作
ることは、個々の公共事業の中止を超えて、自らの存在基盤を掘り崩す可能性がある
からである。そしてこれが彼らの限界であった。
 

より深く、より広く

 私たちは官僚と裁判官のタッグマッチによって、理論的には「行政優位主義」によ
って川辺川ダムを「合法」だとされたまま二一世紀を迎えようとしている。これを「
違法」としない限り、これから一歩も改革を進めることができない。これが二○世紀
の最後に残された最大の宿題だ。
 どうすれば、この問題を解くことができるのか。私たちが政治の鍵を握るようにな
ってきていることは先にみた。しかしよい政治家を選んだとしても、彼らがすぐに官
僚と裁判官をコントロールする法律を作るとは考えることができず、他に国民が彼ら
をコントロールする方法を持っていない。官僚と裁判官は、今のところ国民とは非常
にかけ離れた存在なのである。
 以下、紙面がないので、宿題を解くための大筋だけを掲げることにする。
1 官僚の諸君に訴えたい。このままでは日本はつぶれる。あなたの子供にこのよう
な日本を引き継いで良いかどうか自問してみよう。アメリカで政策転換が行われたき
っかけは、政府職員が科学者と一緒になってダム中止をクリントン大統領に訴えたか
らであった。
 良い官僚の育成は二本の急務の課題なのであり、それは官僚内部の問題でもあるの
である。
2 自治体の諸君も改革に参加できる。あなたたちが必死になって行おうとした公共
事業は中止になった。あなたたちに遂行を命じていた知事や議会は間違っていたので
ある。
 できないことをやれというのではない。あなたたちには情報公開条例、環境アセス
メント条例、あるいは政策評価条例など、無駄な事業を合法的に止めることのできる
武器が山ほどある。真の職務に忠実であってほしい。ついでに談合など不正を行った
企業に対して永遠の入札拒否を伝えられればなお良い。これまでの経験によれば、ま
ず住民に近い自治体が変わり、そして国も変わっていった。
3 裁判官と弁護士。裁判官はもう一度憲法を読んでほしい。そうすれば、その職業
がなんのために、また誰から守られているかわかるだろう。政治も行政も変わる。裁
判も「司法改革」の一環として今、大きく変わろうとしている。そろそろこのままで
は市民だけでなく、裁判を放棄したような裁判は裁判でないとして、援護射撃をして
いるはずの官僚だって、実は腹の底では裁判というものを信用していなくなっている
ということに気づくべきなのだ。 
 長い間、このような異常状態を放置している弁護士(日弁連)の責任も大きい。司
法改革の名のもとで弁護士の数を云々するだけでなく、国民の先頭に立って日本の司
法に存在する事実上の裁判拒否という暗黒の世界の掃除を始めなければならない。こ
のままでは間接的ながら、ひょっとしたら弁護士までもが官僚の味方をしているので
はないかという国民の疑念は晴れず、日弁連の掲げる司法に対する市民の参加など絵
空事になるかもしれないのである。
4 学者や専門家も原点に戻れ。今回は利権に最も敏感な政治家が不利を承知で動い
た。選挙によって、国民はそういつまでも甘くはないということを思い知らされたか
らである。学者や専門家の学問あるいはプロフェッショナルは、選挙などの洗礼を浴
びることがないだけに、いっそう利権などとは無関係に、真実と正義を守り、不合理
をただすことに真剣でなければならない。
 あなたたちが審議会の委員などとしてゴーサインを出した事業が中止になった。あ
なたたちは、そのいずれが正しいのか、論文で、授業で、あるいは学会で、その原因
やプロセスを明らかにしなければならない。
 「行政優位主義」は、松下圭一教授が今からもう三十数年も前に警鐘を鳴らした社
会科学最大の問題であった。これに関連する学問の居眠りも余りにも長すぎる。
5 そして国民。そろそろ自分が選んだ議員や知事が、こんなに歪んだ国にしてしま
ったということを自覚すべきである。あなたは、この国をどうにでもできる一票をも
っている主権者である。国民が立ち上らなければ本当の改革はやはりないということ
を、私たち一人一人が国民に伝えなければならないのである。

 官僚と裁判官を変えなければ公共事業は変わらない。そしてそれは、単純なもので
はなく、総力をあげた日本改造戦略なのである。


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