VOL31-4
今年 1月17日、三重県長島町で開かれた「長良川救済のためのシンポジウム」に私が出席した時、
村瀬さんから、体調不良で出席できないががんばってほしいという内容のメッセージが届いた。
村瀬さんの体調を心配すると共に、独特の語り口調が聞けなくて残念に思った。
その2か月後の3月15 日、村瀬さんの訃報が届いた。
私と村瀬さんとの付き合いは昭和52年、江田三郎さんが社会党を離党して
社会市民連合(後の社民連)を旗揚げしたとき以来で、30年近くになる。
もともとは労働運動から社会党そして社民連に参加されたが、
なんと言ってもその後半の半生は長良川河口堰訴訟にかけておられた。
長良川河口堰は、1995年、皮肉にも、建設に反対してきたはずの社会党村山総理の下で運用が始まった。
当時五十嵐建設大臣から野坂建設大臣に代わった直後であった。
建設省にとって巨大公共事業は「生命線」と考え、ありとあらゆる手で反対派を封じ込め、強行して来た。
長良川の河口堰の工事が完成し、もはや反対しても無理という判断であったのか、
野坂建設大臣は建設官僚の言うままに運用を認める決定を下した。
私が長良川河口堰問題に本格的にかかわり始めたのは、民主党として公共事業の見直し、
特にダムや河口堰の見直しにかかわり始めてからだが、
社民連の時代から長良川河口堰のことは村瀬さんからよく聞かされていた。
長良川河口堰は、川辺川ダム、吉野川の可動堰などと同様、水需要の増加を前提に計画された。
その後の時代の変化で水需要は伸びず、前提が崩れたにもかかわらず
巨額の費用を要する建設計画だけが進められてきた。
納税者の立場から見ればまさに“無駄な公共事業”の典型である。
しかし建設省(現国土交通省)の立場やそれにつながる族議員、
さらには地元の土建業者などにとっては、巨額の税金を使う建設自体が目的で、
水需要の変化などどっちでもいいというのが本音。
結局残るのは、環境破壊と巨額の借金。
民主党はこうした公共事業の見直しや工事の中止を求めてきた。
村瀬さんの執念を引き継いで長良川のゲートを開け、
川の水の自然な流れを回復するまでがんばりたい。
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