VOL.19-3


二十五年間闘った
長良川河口堰建設差し止め訴訟
原告 村瀬惣一 
 最終陳述
一九九八年四月二一日

 審理を結ぶに当り、陳述の機会を与えられたことに感謝のうえ、裁判所の御考慮を求めたい。申しあげたいことは二点。一つは差止めの要件に対して、もうひとつは本件事業にメリットがあるかについて、であります。
 この工作物が環境、生態系に及ぼす影響と風水害、高潮、地震等の災害の際、如何にそれを増幅するか、即ち、本件訴訟の根底をなす部分については、すでに詳しく申し述べてきたところであるから今さら申しあげません。―そこで―
 第一点の、差止めの要件について―であります。地裁判決は「当該事業の実施によって、請求者の排他的な権利が侵害され―中略―その侵害行為によって、請求者に重大な損害が生じ、その損害の程度が公共の利益を上廻る程のものであって、その権利を保全することがその事業を差し止めることによってのみ実現される」こと、としている。この場合施行者の主張する事業目的をそのまま受け入れてしまえば、あらゆる差止請求は退けられることとなり、第一審はまさにそのようなものであったのであります。
 いま全国各地で、さまざまな住民運動が噴出している。近辺では、岐阜県御嵩町の産業廃棄物処分場、東濃の高レベル放射性廃棄物の最終処分場、名古屋市の藤前干潟、瀬戸の海上の森、遠くは九州の諌早干拓。これらの住民運動の中には参加者個人の受ける被害が少ないか、全くないケースもある。だが、運動の動機には自然、生態系に対して回復不能の破壊をもたらすことを阻止することが、明日の地球に対する人類の責任だとする使命感がある。長良川には約八十種の魚族が住み、うち半分以上は回遊魚である。生態系の価値は金銭ではかられるものではないし、また特定の個人の所有に帰するものでもない。地裁のいう、差止めの要件は、いま人類が問うている課題に対して無力である。本法廷が今日の人類的課題に答える法理を確立されることを強く希望する。
 第二は、施行者の言う事業のメリットである。結論から先に申さば、それはゼロである。如何なる犠牲も、如何なる金銭的支出もこれを行う価値はない。以下言うところの利水、治水の二点について言う。
 まず利水。
 すでに述べたところであるが、本件長良川河口堰は、一九六五年に策定された、木曽川水系水資源開発基本計画に含まれる。この計画によれば木曽川、長良川、揖斐川の水系にダム等を六つ、計日量で七四五万トンの都市用水を開発し、これを愛知県の尾張と、岐阜県の全域(但し高山を除く)と三重県の北伊勢に供給する、とされる。終末は一応一九八五年度とされる。だがこの地域の既存の水源の実績は四五〇万トン。これに七四五万トンを加えるという計画は、それ自体が過大だった。―果して―終末年度の一九八五年において、完成、稼働していたのは岩屋ダムだけだったが、稼働率は能力の三四二万トンに対して一二〇万トン余、三分の二は余剰だった。だからこの時点において、少なくとも河口堰の一九四万トンと徳山ダムの一三〇万トンについては見直すべきであったのに国は基本計画を二〇〇〇年まで延長、河口堰本体は、一九九四年三月に完成した。この水を使うために、愛知県は木曽川の馬飼用水から供給されていた知多半島五市五町の水道用水、日量一〇万トンを河口堰に切り換える施設を建設中。だが馬飼の能力は一四〇万トン、実績は七〇万トンなのだ。
 また、三重県は津市ほか一市七町の不足水源日量八万トンを河口堰から充当するとして施設を建設中であるが、八万トンは過大。二万トンをこえないとみられる。ならば津市方面の工業用水に日量四万トン近い余剰があり、さらに四日市の北伊勢工業用水に四〇万トン程度の未使用分もある。なのにあえて両県が河口堰の水を使わせるのは、堰建設の正当性の証しにしたいことと、投下資金回収だけが目的だとみてよい。
 もうひとつのメリットとする治水だがー施工者の論理ではー長良川の洪水流下能力を秒七五〇〇トンまで高めるために河道の浚渫を行いたいが、それにより満潮の遡上を延長し、塩害を拡大するから河口堰が必要だ、とする。だが国のいう長島町の塩害とは、伊勢湾台風の高潮に起因する被害であって、いま、塩害は全く解消している。また、計算によれば、すでに長良川の最高水位は秒七五〇〇トン流下時において許容水位以下におさまっている。即ち、利水においても、治水においても、河口堰を必要としない。
 最近某紙のアンケートによれば、国民の七九%はムダな公共事業が行われていると感じており、ムダの第一位は長大橋、第二位はダム、河口堰、第三位は干拓、第四位はスーパー林道。本法廷がこの国民の常識から大きくかい離した判決を下されぬように切望してやまない。 < a name="#murase">

最終陳述を終えて
長良川河口堰建設差し止め訴訟
原告 村瀬惣一 

 レコード会社Aが販売する天中軒雲右衛門の浪曲の海賊版をB社が発売。当然ながらA社はB社を相手取って著作権侵害---賠償の訴訟を起こした。本件は地裁→控訴院(高裁)→大審院(最高裁)に持ち込まれたが、原告が敗訴してしまった。

   B社の主張はこうだ---「A社は音楽という著作権を侵害されたとする」が「音楽とは、楽譜によって指定された、人の音声または楽器による音の高低・強弱・長短の組合せであると定義される」「然るに浪曲には楽譜がない。従って音楽ではなく、著作権のいずれの項目にも該当しない」\何と、これが通ってしまったのだ。戦前私が学生時代に民法の教授から聞いた話しである。結審で私が言いたかったのは、再び斯る迷判決を下してくれては困ると言うことなのである。
 そこで先日の陳述をもう一度整理してみる。
 第一は差し止めの要件である。即ち、岐阜地裁の判決では---簡単に言うと---A社(公団でも行政機関でもよい)の事業計画を差し止め得るのは、A社の事業の公共性よりもB社の受ける損害が大きく、且つ事業の差し止め以外にその被害を回避する方法がない場合に限る、というにある。が、問題が二つある。要件を
(1)B社の所有権に属し
(2)金銭で評価できる価値に限定して良いか
ということだ。
 近代民法の基礎を築いたのは仏革命の所産であるナポレオン法典(1804年)だろう。個人の自由・平等・私有財産制をを確立したとの評価は不変だが、あれから二世紀、とくに、第二次大戦後においてはそれだけでは現代の要請には答えられなくなっているのではなかろうか。一方で主権国家の絶対性が崩壊しつつあり、他方、何人の所有にも帰さない財産や金銭で評価できない価値---いわば明日の地球に対する人類の責任への自覚が芽生えつつある。法が、これら二十一世紀型人間の要請に対して不感症であるならば、法はそのレゾン・デートル(存在理由)を失う時代が目の前に来ているのである。
 第二は、法は一般国民の常識からかい離してはならないと言うことなのだ。
 河口堰の給水能力は、水道用水日量66万トン、工業用水128万トン、計194万トン。今使うアテができているのは知多の水道用水十万トンと中勢の二万トンだけ。しかし知多の水道用水は現水源(木曽川)で間に合い、且つ余剰がある。中勢も余剰工業用水の転用で切りぬけるべきである。全体の2/3を占める工業用水に至っては全く需要はなく、両県はこの分の償還財源に苦しんでいるのである。今や国民はこのことを知っており、過日の中日新聞のアンケートでは国民の七九%は公共事業には無駄が多いと感じており、その第一位は長大橋、第二位ダム河口堰・第三位干拓、第四位スーパー林道となっている。名高裁は何と出るか−裁かれているのは、案外、裁判所それ自体かも知れぬのである。


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