VOL.29-1-U

「美しい国づくり」という新たな公共事業
法政大学法学部教授 五十嵐 敬喜


                 
                         
日本国土に異変がおき始める。
海に行ってみよう。あのなんともいえないグロテスクなテトラポットがなんと撤去される。空を見てみよう。いつの間にかカラスの止まる電線が地中に埋められた。なんだか町の白いガードレールや無粋な交通信号機もおしゃれになった。旅の途中、ふと窓の外を見る。山や畑は相変わらずだが、なんとあの厚顔無恥な看板がない。
そして地方都市では、「城」周辺はコンクリートやアスファルトの世界から昔ながらの石垣や樹木に変えられている。そういえばなんとなく、町や村もお祭りに力を入れるようになった。
市役所の人や議員さんに聞いても市長や町長は町づくりにえらく熱心で、この世知辛い世の中、国から補助金などをどんどん削っていく中で、これだけはジャブジャブ金を出すというのである。
こういう事態がまもなくやってくる。それが今国会に提案されている「景観保全基本法」と「公共事業ガイドライン」である。仕掛け人は国土交通省(もっといえば河川局?)。この政策変更の全体タイトルが「美しい国づくり」(平成15年7月)なのである。

「美しい国づくり」は言う。
わが国土は、国民一人一人にとって魅力あるものとなったか。
都市も田園も海岸も美しさとはほど遠い。
私たちは、社会資本の整備を目的ではなく手段であることをはっきり認識していたか。
美しさは心のありようとも深く結びついている。
国土交通省は、まず自ら襟を正す。
国土交通省は、行政の方向を「美しい国づくり」に向けて大きく舵を切ることにした。と。

私は今から10年前、神奈川県真鶴町という人口わずか1万人足らずの小さな町で、当時のバブルの影響で押しかけてきた東京の不動産会社のリゾートマンションなどのインベーダーを追い返すために、「美の条例」の制定のお手伝いをしたことがある。その際、神奈川県、そして当時の建設省から浴びせられた非難の数々(彼らは条例案をそれこそ一条も残らないくらいに赤鉛筆で削除しようとした)を今でも忘れることができない。まず「町づくり」、こんな言葉は存在しない。「美の基準」、美などというのはまったく法的世界になじまない。議会での開発審査、これは議会の権限を越える。罰則を科すなどとは、地方自治法・水道法違反だ。など、要するにこのような条例は違法であり、認めることができない、というのである。
町はこれらの圧力を議会と住民の力によって跳ね返したが、10年たってここにも明暗二つの転機が訪れている。「美の条例」はいまや違法どころか中学教科書で日本の代表的な条例として紹介され、全国の中学生に教えられるようになった。しかし、この肝心な条例がいまや隣の湯河原町との合併で合法的に消滅させられようとしている。

国土交通省の「美しい国づくり」委員会は、この「美の条例」をお手本に使ったと聞く。「美」を公共事業の基準に置くことは、むろん私も反対ではない。しかし他方で先に制定された「自然再生推進法」と同じように、川辺川ダムでの漁業権の強制収用に見られるような理不尽な力ずくの政策の隠れ蓑と警戒しなくて良いだろうか。「美しい国づくり」とは、ダムなどが世論の反対で造れなくなった国土交通省の「新たな仕事づくり」に過ぎないのではないか。「自然再生」といいながら、諫早干拓は中止されていないではないか。長良川河口堰のゲートは閉じられたままだ。苫田ダムも徳山ダムも八ツ場ダムも、水はいらないのに強行されている。これが「美しい国づくり」といえるか。
「美」という言葉は、便利さ、機能、金、スピード、といった価値から、安心、安全、やさしさ、助け合いといった価値への転換を象徴している。政府は、戦後60年続いた公共事業の官僚支配からの脱皮をするというのなら、国民が納得をできるようにまず、長良川河口堰や諫早水門を解放すべきであろう。



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