VOL.27-2

市民事業
 法政大学法学部教授 五十嵐 敬喜

市民事業とは

 北海道のIさんから、ジャガイモ、たまねぎ、にんじんなど新鮮な野菜がたくさん届いた。生ごみをEM菌を使って「肥料」にしたものでつくった有機野菜である。本人の話によると、本人はもと大手ゼネコンに勤めていて、「開発」を担当するほか、営業部長として、大臣や首長に対する公共事業獲得のための工作を行っていたが、なんとなく後ろめたいこともあって転進し、EM菌を活用した新たな事業を始めた。これが徐々に成果を生み出し、北海道ではホテルや様々な事業所のごみ処理、農家に対しては肥料と飼料、さらに自治体に対しては一定の廃棄物対策として影響を与え始めたというのである。私も現地を見に行ったが、私は、このようなIさんのような市民が行なう事業を、今までにない創意に満ちた事業として「市民事業」ということにした。退職金をすべてつぎ込んで仕事を始め、当初は成功するかどうか、うんと不安だったが、最近は採算のめどもたち、毎日がゼネコンにいた時とは全く違う充実感を覚えるという。外から見ていると、Iさんは、例の「東に病気のこどもあれば行って看病してやり、西につかれた母あれば行ってその稲の束を負い、南に死にそうな人あれば行ってこわがらなくてもいいといい、北にけんかやそしょうがあればつまらないからやめろといい」という宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に出てくる人物のように見える。
 北海道の市民が行なっている市民風力発電も面白い。
 また最近は、全国で山や「森の再生」と「間伐材の利用」、あるいは商店街の空き室を細かく区分して、若い人たちに商売を呼びかける「フリーク・ポケット」や、道路を公園に変えて、市民が主導する「市場」(マーケット)を開くなど、様々な市民事業が行われるようになった。
 十年以上も続く長い長い不況。公共事業の削減。リストラや倒産はいまや日常となった。この中で耐え切れなくなった人々が「自殺」に追い込まれている。しかし、一方で新しい仕事を開拓しようとする人たちが現れ、これが「市民事業」に火をつけ始めたのである。


 しかし、この人たちにも悩みがまったくないわけではない。むしろ反対だ。
 例えば、ごみ(廃棄物)に関する現在のシステムはごみと資源との区別が曖昧であり、かつその処理を有料とするか無料とするか、燃やすのかリサイクルするのか、など政策的に混乱している。早い話、ごみはみんな無料で行政が燃やして処理してくれる、というのであれば、市民の間に資源の節約や再利用という考えは生まれない。このシステムを転換しないと、市民事業がひろがらないというだけでなく、日本中(外国への輸出を含む)がごみに滅ぼされてしまうのである。
 また風力発電も、電力の公平な売買市場をめぐって、トラブルがある。これがうまくいかなければ、日本はいつまでも原発に頼らざるをえないであろう。間伐材もこれまでよく言われてきたことだが、現在の価格では輸入木材に負ける。何よりも木を広く活用していくには、日本の木の文化の誇り、あるいはその美しさを確認することが重要である。このままでは森林の荒廃は止められない。
 「市民事業」は当初の立ち上がり資金が難しい。何もこれまでのように行政が補助しろというわけではない。しかし、銀行融資が完全にシャットアウトされている現状では、せめて自治体が融資の窓口を開くべきである。ここにも現在の深刻な金融事情が反映している。
 市民事業を何とか軌道にのせたい。「市民事業論」というのは、この問題を、単なるスローガンに終わらせるのではなく、また一人一人の献身的な努力にゆだねるのではなく、市民誰でもができる事業にすること、そしてそれがその事業者だけでなく、地域の経済や雇用の確保につながっていくような形にしていくための理論やシステムを考えようというものである。

市民の政府  
 「市民事業」について、まず確認しなければならないことがある。それは、この市民事業によって得られる「商品」は、それが堆肥であれ、電力であれ、また間伐材であれ、マーケットで負けたら生きていくことができない、ということである。それぞれの商品はすべて、大もうけする必要はないが、最低限度、自分や従業員が食べていける程度には自立する必要がある。またそれは、破壊された環境の回復、地域の文化や伝統の発展などに寄与しなければならず、何よりも自分自身の生き方のプライドになり、子供たちも後を受け継いでいけるようなものでなくてはならない。これを手助けするのが自治体である。
 自治体はこれまで、公共事業を獲得し、これを地元企業にばら撒く、これが仕事=行政だと考えてきた。議会もその協力者であった。しかしそれは、財政破壊と地域の衰退をもたらした。自治体は、今後このような仕事から脱却し、市民事業とともに歩まなければいずれ衰退、滅亡してしまうだろう。ちなみにいえば、いま流行の「合併」も、国の財政操作(二〇〇五年までに合併すれば、財政上の特例が与えられる)に頼るだけでは、一時的には命ながらえたにしても、そもそもの生命力、事業のないところでは、少子・高齢化問題を解決することができず、いずれ命脈が絶えるということを肝に銘じなければならないのである。
 それではどのようにしたらそれが可能になるのであろうか。
 注意すべきことは、市民事業とは、それを可能にしていく、ということも重要で、かつ不可欠な事業として考えていくということであり、多分そのとき、自治体は国の下請け機関ではなく、市民がイニシアティブをとる「市民の政府」になる、ということである。
 そこで市民の事業と自治体の関係をみていこう。
 自治体は予算を持っている。なおこの予算は、これまでのように、補助金を中心としたものではなく、原則国の予算と自治体の予算にニ分割されたもので、自治体の予算は、従来からの地方交付金、地方税のほかに補助金が含まれ、自治体はこれらを全部まとめて自由に使える、ということが前提である。
 自治体は、この予算を、自分たちはどういう町に住みたいかということを決めたマスタープランにそって配分する。福祉の町、自然の町、教育の町など、目指すところは全国自治体、皆、個性がある。この目標を実現するための戦略は、大きく言って、二つある。一つは従来の都市計画が行なってきた土地利用規制、もう一つが事業である。
 「市民事業」とは主としてこの事業に関わる(勿論故郷の田んぼに蛍を取り戻すなどという場合は土地利用規制と事業が一体になる)もので、正確に言えば、ここも二つに分かれる。一つはこれまでの公共事業であり、道路や河川の改修などがある。ただ、これらの事業は今後、上からの縦割りでなく自治体の自由になることはすでに見た。もう一つは風力発電、EM菌活用のごみ事業、あるいは商店街の活性化などの市民事業であり、自治体はこれらの優先順位、予算の配分などを自由に行なうのである。参加、情報公開、学習などの手続きや訓練等を経て、これは最終的に議会の議決によって決められる。
 そしてもう一つ、この成果がマスタープランに適合するか否か、予算の配分は適当か、予想通りの成果を上げたかどうか、改善すべき点がないかどうか、などが市民の入った「点検委員会」で点検され、それが行政と議会に報告されるのである。

ポスト公共事業社会
 神奈川県真鶴町など、いくつかの自治体はこのようなシステムをすでに開始している。そこでわかったことは、以下の通りである。
1 財政はきわめて健全である。つまり無駄使いができない。無駄な公共事業など入る余地がないのである。
2 行政、議会とも、自治体政策は住民とともにつくられなければならないということが常識となってくる。公共事業は市民のものであり、上から降ってくるものではない。
3 政策の策定あるいは実施の過程で、これまでの補助金のシステムや法制度の矛盾が明らかになってきて、これが市民に広く共有されるようになった。
4 自治体政策は、このようなシステムによって、まさに良くも悪しくも市民の水準をストレートに反映するようになった。
5 このプロセスは、従来の行政と市民の関係は統治の主体と客体の関係であり、議会はただの無花果の葉である、という関係は止揚されている。すなわち市民は、統治の客体ではなく、主体なのであり、議会もその武器である。つまり「市民の政府」が形をあらわすのである。

 Iさんからの最近の手紙に、早く、全国の人々と「市民事業」について語りあいたいとの希望が書いてあった。多分、このような議論と実践の中から「ポスト公共事業社会の設計図」が生まれてくるのであろう。 (注:I氏のEM菌による新しい事業は「公共事業が変わる」天野礼子著P272を参照。)


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